socom株式会社代表の河野康之は、「バックヤードにいる人にスポットライトを当てる」がモットーの経営者。
「社長よりも、会社の仲間が目立ってほしい」とのスタンスが一貫しており、
自らがすすんで前に出ようとすることは少ない。
しかし…
一介のライターとして、あえて言わせていただきます。
「あなたの人生、記事にしないともったいないです、社長!(笑)」
代表・河野の半生は波瀾万丈で起伏に満ちていて、とにかくおもしろいのです!
…ということで、socom株式会社ワードディレクター・株式会社奇祭代表の岡部聡美が、
彼の生い立ちと経歴をストーリー調でまとめました。
こんな社長が経営している会社なんだなあ…と、みなさまに知っていただけたら嬉しいです。
「ぼくは生まれなかったかもしれない」0歳にして掴んでいた強運
「家族の反対を押し切ってまで出産したーーーそれがぼくだったんです」
お腹に河野がいると判明した当時、出産するかどうかの意見が父母で分かれてしまったそうだ。
産むと決意した母が、家族の反対を押し切ってまで出産したのが三男・河野だった。
「母が意を決して産んでくれなかったら、そもそも、ぼくは生まれなかったかもしれないんだよね」と河野は語る。
最初はほかの兄弟と共に育てられていたものの、
生後3ヶ月からは、母方の実家である屋久島で一時的に育てられることになる。
屋久島時代で過ごした期間は、河野の壮絶な生い立ちを象徴している。
幼少期に過ごした屋久島時代の記憶は消えているものの、
屋久島を訪れると「ヤス(河野の愛称)が帰ってきたぞ!」と兄弟のなかでも自分だけホーム扱いされたり、
屋久島に幼少期の写真が多く残っている(鹿児島には全くない)ことに違和感を覚え、親にあとから確認してその出自を知ったのだという。
幼き河野が、祖母宅近くの海にポツンと浮き輪で浮かんでいる写真が残っている。
その海岸を歩くと、古い海の記憶と目の前の景色が重なり、フラッシュバックすることが今でもあるという。
不思議な話だが、潜在意識に刻み込まれている記憶が蘇るのだろうか…。
このようにして、生まれる前から死線をくぐり抜けた経験をもつ河野。
個性的で、強烈な人生はここから始まっていたのだ。
「勉強したらお金持ちになれるんですか?」事件
「小学生の頃から勉強が嫌いで、学校でも全く勉強した覚えがなくて。」
優秀な兄たちと、「劣等生」としてよくバカ扱いされていたという三男・河野。
二人の兄は帰宅後に勉強していたが、河野は漫画を読んだり、ゲームをしたりしていたという。
遅刻ばかりで、授業中は寝ていて、忘れ物も多く、成績は学年で1番か2番目に悪い。両親は高校に行けなかったときのために、近くの工務店で仕事ができるように根回ししていたほどだった。
高校卒業まで、通信簿はほぼ「オール1」。
オール1を狙って取るほうが難しいのでは?と筆者も思わずツッコミを入れてしまった。
「のび太くんにはドラえもんがついているのに、まぜ自分にはいないんだ?!」
本気でそう疑問に思っていたらしい。
とある日、あまりに勉強しない河野少年にしびれを切らした小学校の担任がこう質問した。
「どうして勉強をしないんだ?」
これに対する河野少年の返答は…。
「先生、勉強したらお金持ちになれるんですか?」
この発言が教師間で物議を醸してしまい、父兄が呼び出しされる事態になった。
しかし、学校に呼び出された実父は、こう言い放った。
「先生、ヤス(河野)がそういう考えなら、もう勉強はさせなくていいです」
なんたる経営者家族…。
その後、大人たちから勉強しろとは言われなくなったそうだ。
河野少年は当時、小学二年生。経営者一家に生まれているとはいえ、この頃から当たり前のように「お金を稼ぐ」ことへの意識が芽生えていたと考えると、末恐ろしいエピソードである。
河野は「劣等生」というコンプレックスを跳ね返すために、自分でルールメイキングして、自分のルールで勝つ。その土俵では「劣等生」とは言わせない。
こんな反骨心を育んでいたのではないか、とのちに振り返っている。
「脇役にスポットライトを当てたい」生い立ちからうまれた想い
劣等生とバカにされる屈辱に加えて、どこに出かけて行っても「〜〜さんの三男」「〜〜くんの弟」と呼ばれ、自分単体ではなくほかの家族とセットで覚えられている。
自分は日陰の存在なんだ、と常に心のどこかで感じていた。
しかしだからこそ、仕事で信頼されて自分自身の役割を与えられたときには、人一倍の嬉しさを感じたものだという。
「日の目を浴びずに頑張ってきた人は優しいし、相手の人となりをよく見ている。」
「それは、人一倍嫌な思いをしてきているからだと思う。」
だからこそ、河野がもつブレない経営哲学がある。
「要領が悪くても、一生懸命はたらく人たちにスポットライトを当てたい」
芸能人が華やかに輝いて見えるのは「その人にスポットライトを当てる人がいるから」。
華やかさはなくても、すばらしい仕事をしている人たちはいる。
そんな人たちを、上に引っ張り上げたい…という彼の願いは、生い立ちが原点になっている。
「だからこそ、自分のチームを作るときには、要領の悪い人を積極的に集めている。」
「そういう人がどんどんイキイキ変化して、仕事が楽しいです!と言ってくれるのが本当にうれしいんだ」
仕事の実績は、10年もすれば「過去のこと」になってしまう。
その仕事を辞めれば、評価はなくなってしまうものだ。
「でも、心に残る仕事は違う。心に残る仕事の思い出は、人の心から一生消えない。」
と、河野は続ける。
同じことを延々と繰り返すのではなく、何か一つでも誇りを持てる仕事を経験してほしい。
だからこそ、もっと輝いてほしい!と感じる人材を集めている。
「仕事の実績より、ぼくが死ぬ時に何人が葬式に参列してくれるかが大切なんだ!」
と、とびきりの笑顔で語ってくれた。
転職経験、驚異の17回。転がるようなキャリア形成で得たものは?
「やりたい仕事ってなんだろう」。
この問いの答えを見つけるために、18歳から34歳の起業まで、数ヶ月〜数年スパンで異業種を転々をし続ける。
「もしかしたら、ひとりの人間が一生で担当する職業の数倍は経験してきたんじゃないかな…」
- ケンタッキー・フライド・チキン三越前店(鹿児島)
勤続:2年(16~18歳)- 東洋工機(岐阜県)
勤続:1か月半(18歳)- ケンタッキー・フライド・チキン三越前店(鹿児島)
勤続:1年(19歳)- ケンタッキー・フライド・チキン春日店(愛知)
勤続:2週間ほど(19歳)- トランコム一宮営業所(愛知)
勤続:4か月ほど(19歳)- カレーハウスCoCo壱番屋一宮佐千原店(愛知)
勤続:1年(20歳)- 協同ドライバーサービス(愛知)
勤続:3か月ほど(20歳)- TGVサービス(愛知)
勤続:7年ほど(20~27歳)- クリスタルサービス(鹿児島)
勤続:2か月(27歳)- 日本興業(鹿児島)
勤続:2週間(27歳)- 西原商会(鹿児島)
勤続:2か月(27~28歳)- ジェイアール九州バス(鹿児島)
勤続:1年6か月(28~29歳)- 鹿児島市交通局(鹿児島)
勤続:5年(28~33歳)- 阪急バス(京都)
勤続:4か月(34歳)- 関西日立物流サービス(京都)
勤続:2か月(34歳)- エムケイ観光バス(京都)
勤続:1年6か月(34~35歳)- TGVサービス(愛知)
勤続:7年 (35〜42歳)
本当にこれが15年足らずの間に起きた経歴なのか?と驚いてしまうような年表だ。
辞めるのは簡単だけど、転職先の面接で内定を勝ち取れるのはなぜですか?と質問してみた。
「阪急グループの最終面接で、なぜウチなんですか?交通系の他社は考えてないのですか?と尋ねられて」
「阪急がいいと思ってるから阪急を受けているのですが、それは他社に行けということでしょうか?と直球で返答したら、面接官たちに爆笑されて内定が出た」
…スキル意外にも、肝の座りっぷりに人並外れたものを感じさせていることは間違いなさそうだ。(笑)
しかし、収入の少ない時代になぜか愛車を200万円で購入し、多額のローンを抱えながら職探しをしたり…
明日食うものにも困ってしまい、夜の吉野家で泣きながら一杯の牛丼を食べたり…
サクサクと転職をしているように見えても、その過程で数々の修羅場をくぐり抜けてきており、思うようにいかない「痛み」を経験している。
また、河野は転職を繰り返しながら、多くの会社の職場環境に疑問を感じ続けていた。
業界常識と、固定観念に縛られる風潮。自分のメンツを保つために誰かを蹴落とす文化。
「できない、やらない、面倒くさい、しょうがない。」が口癖になっていて、現状を変えようとしない。
ここもまた、人が育つ環境ではない…と落胆し、転職を繰り返すこともあったという。
しかし、キャリアの中でも、二回勤務経験がある「株式会社TGVサービス」のヒューマンスキルには目をみはるものがあったと語る。
社員・パートさんと向き合う機会が毎月あります。
同じことを何度も教育する事が前提になっています。
器用な人、不器用な人で、任せる内容が違います。
各現場に笑顔があります。
特定の従業員に負担を掛けないように、毎日業務状況を確認しています。
年功序列はしていません、若くてもチャンスを与えています。
社外勉強会の機会を与えています。
人を責めず、事を責め一緒に原因と対策を考えます。
弱いもの虐めを許さない環境があります。
従業員の評価は、お客様が決めます。
できない、やらない、しょうがない、を許しません。
業界常識に捕らわれず、柔軟性があり、改善が日常になっています。
そのような会社だから、成長意欲が高く、現に成長している企業です。ーESJ3期「卒業論文」より
この企業文化に共鳴した河野は、TGVサービスでの勤務後に、自身の会社を立ち上げることになる。
TGVサービスは、河野家の長男である、河野暁さんが立ち上げた企業だ。
小さい頃からどこに行っても「河野の弟」と言われ続けてきた。
兄たちと比べられることが嫌で、違う道を選んできた。
いつか見返してやる、ずっとそう思って生きてきた。
自立したいと思っていたが、なにをやってもうまくいかなかった。TGVに戻ったのは、そんな自分に手を差し伸べてくれた兄の優しさ。
兄達は失った時間を取り戻すかの様に敢えて厳しく接してくれた。
そして勉強が好きな私に学ぶ環境を与えてくれた。幸せとは、成長と貢献。
何を信じればいいのか解らなかった私に一つの指針ができた。
自分にしか興味がなかった私が部下の育成をはじめた。
私が今まで受けた愛情を、社員に注ぐことでこれから恩返ししていきます。ーESJ3期「卒業の約束」より
怒涛の転職経験、そして兄が立ち上げたTVGサービスでの勤務経験によって、幼い頃から反骨心のベースになっていた「劣等感」に向き合い、昇華し、経営へのエネルギーに変換していったのだ。
河野の経営哲学が「現場力」の向上につながっている
従業員ひとりひとりに向き合い、オペレーションを高速で改善し、「現場力」を底上げすることが得意な河野だが、その秘訣は「兵隊の長」になることだと話す。
「絶対君主の殿(との)になるのではなく、俺が先陣を切って一番多く敵を討ってやる!というスタンスの長(おさ)でいるから、チームが団結する」のだそうだ。
そんな河野の「さまざまな現場で長(おさ)をつとめた経験」は、経営シーンで余すことなく活かされている。
例えば、クライアントの業務を請け負うだけではなく、経営改善もセットで提案し、共同作業することが多いのだ。
最近では、工場に商品作りを発注する過程で、先方のタスクを整理し、売上を単月4倍に向上させた実績もある。
この記事では、代表・河野のエピソードをいくつか紹介させていただいた。
気になる話があったら、ぜひ直接、河野本人に突撃してみてほしい。
すべてお読みいただきありがとうございました。
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